教育における「普通」の定義を巡って…
岸原さや🌿(@sayasaya777)さんは先日、こんな呟きを投稿しました。
「普通」かぁ。自分は偏差値42のガチ底辺校と言われる高校で教職をした経験と、難関中学受験生のための進学塾で教材や特訓模試を作ったりしてた両極端の経験があって、天国と地獄というか、子ども本人の努力以前の階層格差のすさまじさや環境格差を思い知らされたな。ちっとも平等じゃない。
— 岸原さや🌿 (@sayasaya777) August 16, 2020
底辺校の高校生の家庭は片親が多く貧しく、父親はガテン系の人が多かった。非行に走る子の中には掛け算九九さえできない子もいた。数学教師はその子のために小学校の算数から補習をした。中学受験塾の前では送迎のためのベンツが並んでいた。首都圏模試で1番になった子は今霞ヶ関の官僚になっている。
— 岸原さや🌿 (@sayasaya777) August 16, 2020
「努力以前の階層格差を思い知らされた」
なんとも凄まじいお話です…。
深刻な問題
岸原さんはさらにこう続けます。
子どもには罪がない。どんな家庭に育っても。どちらの環境でも真面目さや誠実さ、優しさやユーモアのある子たちが大多数だった。違うのは底辺校では未来に希望を持てず自暴自棄になる子が一定数いる反面、私学に進める子達には高学歴へのプレッシャーが強く序列で自他をジャッジする傾向があったこと。
— 岸原さや🌿 (@sayasaya777) August 16, 2020
おなじ人として生まれながら家庭の経済力の影響人生のコースの大枠が分けられてしまう現実がある。
中野駅前で著名進学塾のポスターを見るたび、そのコピー文の
「集まれ未来のリーダーたち」ってフレーズの傲慢さが鼻につく。もしかしたらそれを傲慢と思わない感覚が「普通」なんだろうか。— 岸原さや🌿 (@sayasaya777) August 16, 2020
※正確なコピー文は「でてこい、未来のリーダーたち」とのこと。
全体像を捉えるためには、「限られた環境にいる自覚」が必要不可欠。
ただし…子ども自身が望む未来を守るという点で、その扱い方は、決して簡単なものではありません。
我々大人にはまだまだ議論が足りないと、改めて思い知らされます。
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みんなの反応
●私自身は経済的理由で公立の進学校(高校)から東大まで授業料無料で学びましたが、その高校から底辺校に移動になった先生が、「この進学校には一学年1人授業料免除がいるかどうかだけど、今の底辺校は6人に1人が免除だ」と貧困問題を語っていました。多分、あの人達には別世界に思えたでしょう。これを聞いたのは、離任式での話でした。その学年に1人が自分って悲しさはキツかったです
●マジでこれ。だからといってワイみたいな片親低所得家庭(親に対して全く恨みはないし感謝してる)が高み目指して大学入っちゃうと周りとの環境の差に絶望するしそれに合わせようとして滅亡するンゴ
●教職につくと一度は貧富の格差を目の当たりにする。そしてそれが、学力の差に直結してしまうことも知ってしまう。こうして同じ文化は再生産される
ハッとする一幕に、他のユーザーたちからも大きな反響が寄せられていました。